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バンクーバーオリンピック

バンクーバーオリンピックが終わりました。 金メダル1つに終わったトリノより多くのメダルを持って選手たちは帰ってきます。 スケートのパシュートで最後の最後に抜かれて惜しくも金メダルは取れなかったけれど、 上村愛子選手のモーグル4位から始まって、カーリング、スピードスケート、スキージャンプ、ノルディック、フィギュアスケート、その他の種目も、 日本人選手が活躍するのを楽しみながら観戦しました。

フィギュアの真央ちゃんとともに、とても楽しみにしていた選手がいます。 男子アルペンの皆川賢太郎選手です。 昨年、結婚した上村愛子選手とともに目指すメダルでした。

皆川選手を応援し始めてから、ずいぶんになります。 体格のいい選手に有利なスラロームで勝つために、小柄な日本人である皆川選手は、当時では常識やぶりの短い板でのカービングスキーで戦って、トップスラローマーとなりました。 カービングスキーは膝に大きな負担がかかります。 おかげで選手生命を左右する膝の靱帯を断裂して手術し、それでも厳しいリハビリのあと復帰しました。 50年ぶりのアルペンでのメダルを期待されたトリノでは1本目はトップと0.07秒差の3位につけましたが、メダルをねらった2本目はスタート直後に不運にもブーツのバックルが外れました。 それでも滑り続け、最後まで攻め続けて、0.03秒差で4位となりました。 バックルが外れなければ、トリノのメダリストになれたのかもしれません。

皆川選手はトリノのあと、もう片方の膝も靱帯を傷めてしまい、手術とリハビリのために再び試合から離れました。 それでもまた復帰しました。 試合に出ないとワールドカップのポイントが下がるので、復帰直後はランキング下位のグループで戦わなければなりません。 上位の選手が滑って荒れに荒れたコースでいいタイムを出さなくてはランキング上位には上がっていけません。 下位からスタートして、徐々に順位を上げて、バンクーバー行きを決めた皆川選手でした。

結果は1本目でコースアウト。2本目には進めませんでした。 1本目は何としても完走しないと...と思うのですが、当日は雨が降り、雪が溶けてコースはざくざくで視界不良。 出場選手102人中、1本目を完走できた選手は54人だけという試合は、大会期間中では最低のコンディションだったそうです。 スタート順が遅い皆川選手はざくざくで荒れたコースでは、普通に完走するだけでは2本目に残れないため、リスク覚悟で攻めて冒険する以外に方法がなかったそうです。 苗場の固いバーンで練習を積んできた皆川選手本来の高速ターンができなかった雨のバンクーバーのコースでした。

体格のいい欧米人に負けないように、それまでの常識をくつがえしてカービングスキーで挑戦した独創性。
両足の膝を傷めながらも挑戦することを止めない不屈の精神。
人柄もよさそうだし。
そんなわけで、バンクーバーに行きの選考会で瀬戸際に立った賢ちゃんを応援してきたのでした。 二度の大怪我を乗り越えてがんばっている皆川選手を見ていると、勇気がわきます。

片膝ずつ、二度の靱帯損傷を乗り越えて挑んだ賢ちゃんのバンクーバーオリンピックは終わりました。 4年に一度のオリンピックなのだから、いいコンディションで滑らせてあげたかったです。

(2010年3月1日記)


(写真:http://vancouver.yahoo.co.jp/より参照)

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